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Vol.224 おせっかいな解説

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 天声人語氏によると、作家の開高健が「感動のきっかけは最初の一瞥にある」と書いているそうで、最初に感動できないものは凡作ということらしい。何事も一目ぼれでないと本物ではないということか。
「最初の一瞥」で感動するには、詳細な予備知識は邪魔になるかも知れない。初めての土地を旅するとき、前もって多少その地域の知識を持って行く場合と、逆にほとんど白紙の状態で訪ねる場合とでは、旅の印象はかなり違ってくるのではないだろうか。

海外への旅行などでは、ほとんど調べずに行った街で、帰国してから、あの夕食をとったレストランのすぐ近くにあんな有名なところがあったのかと後で知って大変残念な思いをすることがある。
また、あの場所は、あの建物は、どんな歴史があったのか知らなかったため見逃し、逆に、見ていたのに知識がなかったため気付かなかったりすることもある。ただ、先入観がないから見たもの触れたものの新鮮さは、後でも印象に残ることが多い。たまたま立ち寄った美術館で、予期していなかったレンブラントの暗闇に浮き出た巨大な「夜警」に突然出くわし、それこそ、開高健の「最初の一瞥」を体験したことを思い出す。40年ほど昔のことで全く予備知識がない状態だった。

先入観なしの旅行の新鮮さは、なまじ、中途半端な知識がないだけに、最初の一瞥の印象を自由に白紙の上に描くことになるからだろう。しかし、ほんの少し予備知識があった方が良い、と言うのが個人的実感である。

水族館の来館者はいろいろなことを「知り」、そして何かを「感じ」て帰られる。「知る」ことと「感じる」ことと、どちらがより大事かと問われれば「感じること」と以前にも書いた記憶があるが、アメリカの海洋生物学者はその著書で述べている。
おせっかいな解説は、せっかくの白紙のところに、「知る」ことを先に描き込むようで、「感じる」ことの邪魔にならないかと思うことがある。人は、1人ひとり感じ方がちがう。それを先にステレオタイプな説明をしてしまうと感じ方を阻害してしまう。画家の中には自分の作品に題名をつけない人もいるから、絵画や音楽の鑑賞も同じだろう。評論家の解説を読んでから観たり聞いたりするのと、後で読むのとでは最初の印象が大いに異なることがある。

来館者に話しかけたり、話しかけられたりの解説ボランティア活動は、魚名に始まり、その魚の特徴、生息地、寿命、産卵時期、味、等々定番のアイテムのような話題は、せっかく目の前の魚を見て「感動のきっかけの最初の一瞥」に思いをめぐらせている人にとっては逆に邪魔になるかもしれない、と考えると解説も難しくなる。

開館当初、関門潮流水槽のウズ潮を見て「わーっ、ツララだ」と叫んだ男児がいた。「最初の一瞥」からでた感動だったのだろうか。ソフトクリームを連想する女児もいるだろう。
また、マンボウの水槽前で、年配の女性が、悠々と泳ぐマンボウを見て、「マンボウは何を楽しみに生きているのでしょうか?」と尋ねられた。ご自分の人生と重ねて何かを思いめぐらされていたのか、それとも、大海原で生活していたのにこんな狭い所でかわいそうと思われたのか。巨大なマンボウからは、水槽が狭く感じるのも確かで、マンボウの心を察した「最初の一瞥」だったかも知れない。

最近は、温暖化の影響か昔のようにツララを見る機会はほとんど無くなったが、彼が上記写真の場面を見たら、今度は何と思うだろうか。好きなアニメのイメージなどから、銀河系を飛翔する宇宙船Aを想像するかも知れない。
そんな時、カタクチイワシやアカエイの解説を先に始めてしまったらどうであろう。子供は素直に、「最初の一瞥」で感じたことが即座に口から出てくる。関心がなければ反応は帰ってこない。その言葉に逆に感動することがあるから子供達の「発声」にはいつも耳をダンボのようにしているが、最近は聞く機会が少なくなった。

毎年秋は小学生の団体案内が多くなるシーズン。中には、たどたどしい字だがお礼の感想文が届くと大いに感動し励みになる。しかし、ほぼこちらが話した内容に大きく影響されていると思える感想が多いのでドキッとすることがある。そのつもりがなくても、こちらの印象が子供の関心の範囲を限定してしまったのではと心配になってくる。
とは言え何も話さないわけにもいかない。ちょっとおせっかいであることを自認している越後のチリメン問屋のご隠居こと、先の副将軍水戸光圀公、あのご老公様にならって、おせっかい解説をしばらく続けていくことになるのだろう。助さん、否、格さんから「お客様の御前である、頭が高~い控えおろぅ」と言われそうなので、少し控えめに。

解説ボランティア:唐櫃 山人

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